和倉勇作と瓜生晃彦が初めて出会ったのは小学校に入学する直前のこと、レンガ病院の前で。
小学校から高校まで同じ学校で学ぶ。
医者を目指しながらも、父親の病気のため、警察官になった勇作。
UR電産社長の息子でありながら、医学を志し医者になった晃彦。
二人は互いに何か意識つつ、互いを妬む。
UR電産の新社長が毒矢のボウガンで殺害される事件が起こり、二人は10年ぶりに再会する、刑事と容疑者として。
晃彦の妻・美佐子は勇作の元恋人だった。
レンガ病院にいたサナエという名の知的障害をもった女性。
美佐子の父親。
UR電産創設者であり晃彦の祖父である和晃。
レンガ病院の元院長、上原。
瓜生家が守らなければならない秘密とは何なのか?
電脳式心動操作法とは?
勇作と晃彦の『宿命』とは?
最後の最後まで息つくヒマなし。
兄・泉水、弟・春、どちらの名前も英語にするとスプリング、2人は最強の兄弟。
2人の兄弟と優しい父と美しい母の4人は最強の家族。
そんな家族には重力のようにのしかかる辛い過去があった。
そんな家族の周辺で連続放火事件が起きる。
放火場所を予告するかのようなグラフィティアート。
グラフィティーアートに書かれた文字と遺伝子ルールの奇妙な関係。
そして過去の忌まわしい事件との関係。
・・・反省して欲しい・・・ただそれだけだったのに。
両親の言葉・・・
ふわりふわりと飛ぶピエロに、重力なんて関係ない。
重力は消えるんだ。
楽しそうに生きていれば、地球の重力なんてなくなる。
春の言葉・・・
まっすぐに生きていこうと思えば、どこかで折れてしまう。
かと言って、曲がれ曲がれ、と思っていると本当に曲がる。
どうにもならない宿命とういうのは切な過ぎる。
重力(宿命)なんて消えてしまえばいいのに。
阿川佐和子さんがワシントンに移り住んだ1992年から1993年までの一年間を書き記したエッセイ。
彼女はその1年間、スミソニアンで子供たちの保育をするボランティアをしていたそうだ。
内容は、初の異国暮らしで感じたこと、アメリカの不思議などなどなど。
もしも私がアメリカに住んでいなかったら、この本はとても興味深いものだったと思う。
『アメリカってそんな所なんだ!』とか『アメリカ人ってそんな考え方をするんだ!』とか、新しい発見がいっぱいあっただろうから。
でも、アメリカで暮らしていると、『そうそう、そうなんだよね!』と同意することはあっても、新たに何かを発見することはなかった。
アメリカに来る前に読んでおくべきだった。
茂木健一郎のウェブ日記「茂木健一郎クオリア日記」を加筆編集した本。
元々が日記なので、徒然に思いついたことが書かれている。
茂木さんとは、本の趣味が合わないなぁと思った。
茂木さんは芥川賞受賞作品を絶賛している。
「芥川賞受賞作品の良さが分からない人は、自分の理解力を疑うべきだ」と。
さらに、「専門家がいいと言っているんだから、いい作品なんだよ。素人は、つべこべ言うな!」と。
でも、直木賞受賞作品についてはケチョンケチョン。
(直木賞だって専門家が選んでいるんじゃないんかい?!)
まあ、日記だから多少矛盾があっても許されるんだろうけど・・・、私は直木賞受賞作品の方が好き。
20年前はまだ良かったけど、最近の芥川賞受賞作は全然面白くない!
本文中から、『なるほど!』と思った部分の抜粋・・・
人間の致死率は100%。
人生の時間の2割くらいは予め何をするか決まっていないワイルドカードであることが望ましい。
空白は空白のようで空白ではない。
否定的に知覚されるものほど、自分にとって恐ろしい敵だし、自分の内面のどこかに共鳴するものがあるものなんだろう。
文学作品に対する評価は、それがどんな文脈に置かれているかではなく、読んだ後の言葉に出来ない独特の感覚、すなわちクオリアによるしかない。
脳の働きから見れば、「やっている」と「やらされている」の差は紙一重である。
神経機構から言えば、純粋な自由意志があるのかどうかも疑わしい。
想像力以外の何ものにも、私たちは制約されていない。
いいじゃないか。他人と違っていたって。
「奇妙であることの自由」を、基本的人権の一つとしてここ日本でも高らかに主張したい。
以下は《アメリカについて》・・・
アメリカは圧倒的な浪費の上に成り立っている。
スペンド、スペンド、スペンド。
物質的豊饒が、良い意味でも悪い意味でもその中にいる人間をスポイルド・チャイルド(甘やかされた子供)にする。
いろんな人たちがいる中、誰にでも通用するなにかの価値を見出そうとする努力は、それなりの普遍にいたるだろう。
コメディを見て喜んでいる単純な人たちだからこそ、ロケットを月に飛ばせた。
「子供っぽい」ということが、良い意味でも悪い意味でもアメリカという国の一体のナショナル・キャラクターになっている。
主人公・村野はトップ屋。
トップ屋とは、週刊誌のトップになるようなニュースを探り出し、雑誌社に売り込むことを仕事としている人。
時は東京オリンピック直前の昭和38年。
村野は偶然、地下鉄で爆弾事件に巻き込まれ、連続爆弾魔・草加次郎事件を追い始める。
その最中、甥の卓也を迎えに行った葉山の坂出邸で女子高生・タキと出会う。
タキを家まで送り届けた際、タキに対する父親の暴力を目の当たりにした村野は、タキを自宅に泊める。
そして、タキはいなくなり、隅田川に浮かんだ。
連続爆弾魔は誰か?タキを殺した犯人は誰か?
少女たちに蔓延する睡眠薬と麻薬、売春。
偏執的な家族愛。
こうゆうの昔からあったのね。
村野の孤高と心意気がすごくいい。
この時代の雑誌社の在りようが興味深かった。
老人が暮らす痴呆病棟が舞台。
前半は入院患者の履歴、現状が事細かに描かれている。
お地蔵さんの前垂れを縫い続ける女性、深夜、引き出しに排尿する男性、異食症で五百円玉が腸に入ったままの女性、自分を23歳の独身だと思い込む女性、などなど。
この病棟で一人また一人と患者が亡くなっていく。
年齢が年齢なだけに、亡くなっても不自然ではないのだが・・・。
疑問をもったのは看護師の城野。
彼女はいつも明るく、真に患者を思いやり尽くしている看護師。
呆けてもなお生き続けるのが幸せなのか、安楽死した方が幸せなのか。
終末医療の現状と問題点が描かれている。
ミステリーとして読むと、それほど面白くない。
でもノンフィクション的な部分で、痴呆とはどんなものなのか、その一部を垣間見ることができる。
痴呆老人・・・なんだかとっても切ない。
生き続けるのが幸せか、安楽死した方が幸せか、今の私には判断できない。
重い作品。
『オランダでは医療行為に安楽死が取り込まれている』
というのは本当のことらしい。
佐伯は広告代理店のやり手営業部長。
50歳、根っからの仕事人間。
仕事では大きな契約をまとめ、プライベートでは娘の結婚が決まり、まさに順風満帆だったのだが・・・。
目眩と頭痛と不眠に悩まされている。
そして物忘れ・・・人の名前が思い出せない。
ある日、不眠治療のため訪れた病院で『若年性アルツハイマー』の診断を受ける。
いつかは全てを忘れてしまうんだという恐怖と、自分はまだまだ大丈夫だと信じたい自尊心。
錯乱し自暴自棄になる佐伯。
会社の関係者にも娘にさえも誰にも病気のことを知られたくないと思う心。
佐伯は他人に気づかれないために涙ぐましい努力を続ける。
出来るだけの事をメモに書きとめる。
メモをなくさないために、いつでも見られるように、メモはポケットに入れる。
ポケットのメモはどんどん溜まる一方であり、それを管理することさえ難しくなる。
そして、ついに佐伯は退職する。
そんな彼を救ったのは陶芸と家族だった。
妻が分からなくなる日はやってくるのか。
最後はつり橋で女性と出会うシーンで終わる。
著者は
「記憶を失うということは、どういうことなのか?
その答えを求めて、この物語を書き始めました。」
と言っている。
佐伯の言葉、
記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。
私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。
そんな風に考えられようになるまでには、どれだけの苦しみを乗り越えたことか・・・。
佐伯の焦燥感、混乱、錯綜など複雑な揺れ動く気持ちが丁寧に描かれている。
読んでいると苦しくなるほど。
面白かったし、考えさせられた。