2010年4月19日月曜日

宿命 by 東野圭吾


和倉勇作と瓜生晃彦が初めて出会ったのは小学校に入学する直前のこと、レンガ病院の前で。
小学校から高校まで同じ学校で学ぶ。
医者を目指しながらも、父親の病気のため、警察官になった勇作。
UR電産社長の息子でありながら、医学を志し医者になった晃彦。
二人は互いに何か意識つつ、互いを妬む。

UR電産の新社長が毒矢のボウガンで殺害される事件が起こり、二人は10年ぶりに再会する、刑事と容疑者として。
晃彦の妻・美佐子は勇作の元恋人だった。

レンガ病院にいたサナエという名の知的障害をもった女性。
美佐子の父親。
UR電産創設者であり晃彦の祖父である和晃。
レンガ病院の元院長、上原。

瓜生家が守らなければならない秘密とは何なのか?
電脳式心動操作法とは?
勇作と晃彦の『宿命』とは?

最後の最後まで息つくヒマなし。

重力ピエロ by 伊坂幸太郎


兄・泉水、弟・春、どちらの名前も英語にするとスプリング、2人は最強の兄弟。
2人の兄弟と優しい父と美しい母の4人は最強の家族。
そんな家族には重力のようにのしかかる辛い過去があった。

そんな家族の周辺で連続放火事件が起きる。
放火場所を予告するかのようなグラフィティアート。
グラフィティーアートに書かれた文字と遺伝子ルールの奇妙な関係。
そして過去の忌まわしい事件との関係。
・・・反省して欲しい・・・ただそれだけだったのに。

両親の言葉・・・
ふわりふわりと飛ぶピエロに、重力なんて関係ない。
重力は消えるんだ。
楽しそうに生きていれば、地球の重力なんてなくなる。

春の言葉・・・
まっすぐに生きていこうと思えば、どこかで折れてしまう。
かと言って、曲がれ曲がれ、と思っていると本当に曲がる。


どうにもならない宿命とういうのは切な過ぎる。
重力(宿命)なんて消えてしまえばいいのに。

2010年4月18日日曜日

どうにかこうにかワシントン by 阿川佐和子


阿川佐和子さんがワシントンに移り住んだ1992年から1993年までの一年間を書き記したエッセイ。
彼女はその1年間、スミソニアンで子供たちの保育をするボランティアをしていたそうだ。
内容は、初の異国暮らしで感じたこと、アメリカの不思議などなどなど。

もしも私がアメリカに住んでいなかったら、この本はとても興味深いものだったと思う。
『アメリカってそんな所なんだ!』とか『アメリカ人ってそんな考え方をするんだ!』とか、新しい発見がいっぱいあっただろうから。
でも、アメリカで暮らしていると、『そうそう、そうなんだよね!』と同意することはあっても、新たに何かを発見することはなかった。
アメリカに来る前に読んでおくべきだった。

2010年4月6日火曜日

やわらか脳 by 茂木健一郎


茂木健一郎のウェブ日記「茂木健一郎クオリア日記」を加筆編集した本。
元々が日記なので、徒然に思いついたことが書かれている。

茂木さんとは、本の趣味が合わないなぁと思った。
茂木さんは芥川賞受賞作品を絶賛している。
「芥川賞受賞作品の良さが分からない人は、自分の理解力を疑うべきだ」と。
さらに、「専門家がいいと言っているんだから、いい作品なんだよ。素人は、つべこべ言うな!」と。
でも、直木賞受賞作品についてはケチョンケチョン。
(直木賞だって専門家が選んでいるんじゃないんかい?!)
まあ、日記だから多少矛盾があっても許されるんだろうけど・・・、私は直木賞受賞作品の方が好き。
20年前はまだ良かったけど、最近の芥川賞受賞作は全然面白くない!

本文中から、『なるほど!』と思った部分の抜粋・・・
人間の致死率は100%。

人生の時間の2割くらいは予め何をするか決まっていないワイルドカードであることが望ましい。
空白は空白のようで空白ではない。

否定的に知覚されるものほど、自分にとって恐ろしい敵だし、自分の内面のどこかに共鳴するものがあるものなんだろう。

文学作品に対する評価は、それがどんな文脈に置かれているかではなく、読んだ後の言葉に出来ない独特の感覚、すなわちクオリアによるしかない。

脳の働きから見れば、「やっている」と「やらされている」の差は紙一重である。
神経機構から言えば、純粋な自由意志があるのかどうかも疑わしい。

想像力以外の何ものにも、私たちは制約されていない。

いいじゃないか。他人と違っていたって。
「奇妙であることの自由」を、基本的人権の一つとしてここ日本でも高らかに主張したい。

以下は《アメリカについて》・・・
アメリカは圧倒的な浪費の上に成り立っている。
スペンド、スペンド、スペンド。
物質的豊饒が、良い意味でも悪い意味でもその中にいる人間をスポイルド・チャイルド(甘やかされた子供)にする。


いろんな人たちがいる中、誰にでも通用するなにかの価値を見出そうとする努力は、それなりの普遍にいたるだろう。

コメディを見て喜んでいる単純な人たちだからこそ、ロケットを月に飛ばせた。
「子供っぽい」ということが、良い意味でも悪い意味でもアメリカという国の一体のナショナル・キャラクターになっている。